タカサゴビール
高砂麦酒株式会社
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タカサゴビールは、大正9年に台湾の高砂麦酒株式会社から発売された。
高砂麦酒の工場*は、台北市にあった。
タカサゴビールは、昭和8年に台湾総督府専売局の専売品となったのち、昭和20年に中華民国の台湾啤酒になった。
(755夜)
*現・台北啤酒工場(台北ビール工場)
――浅草は、私にとっては働き場所の方が多くて、六区へ活動を見に行くということは少なかったのだ。雷門のちんや近くから公園の方へ入ったところにレストラン聚楽というのがあった。昼間は女給の、退屈しのぎにたたくピアノのねむたげな音がしている。夜は楽士たちが、ラ・パロマや、トラビアタなどというのを弾いて、コップとホークの音に客の酔った声がまじって、電燈は煙草のけむりに濁っていた。(佐多稲子「私の東京地図」)
牛肉屋ちんやの名は米久と共に、浅草では余りに有名な大衆向の大店で、昔から知れてゐます。今日でも昔ながらの姐さんサーヴィス、あがるとそこが追込みの大広間で、お客はてんでに勝手な場所に陣取り、鍋をつゝくと云った趣向、あく迄大衆的ではあります――(白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』)
こゝも相当華美を凝らした喫茶店です。(白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』)
元々レストランとして建築されたもので、外観内容共に申分なく、堂々たる構へで西洋料理、支那料理もありますが、浅草ファンに取入るために手軽な喫茶、食事もあります。(白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』)
明治製菓角を駒形の方へ曲ってすぐです。二階建一寸カフェー風の構へですが、安直なのが近代人を喜こばせてゐます。(白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』)
七月五日。始て霽(はれ)る。午後佐藤佐氏おもかげ製本五部持来る。晡下土州病院に行き銀座に飯す。街上にて偶然菅原君に逢ふ。この日葛飾情話蓄音機円盤でき上りたれば余を招ぎて聞かせたしと思ひ午後余が家に電話をかけしなりと言ふ。銀座コロンバンにてオペラ館の永井真弓の来るを待合せ尾張町山野楽器店に至り、同店楼上に設置せられたる機械をかりて円盤を聴く。一同浅草に至り森永にて晩餐を喫す。この夜オペラ館舞台稽古あり。文芸部員と公園外の一茶店に飲む。夜はいつか明けて朝日輝きたり。(永井荷風 断腸亭日記「昭和十三年」)
七月二日 月 微雨 蒸し暑し朝、理研で弥生、雪子を待ち合わせ、正二のアパート訪問。渋谷まで円タク。それから東横電車。正二はまだ寝ていた。いっしょに第一相互東洋軒昼食。三越へ行きアジュールのコップ六個買う。(寺田寅彦日記「昭和九年」)