蒲焼 御料理
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十二月三十一日 月 朝より雨午前原稿。昼、竹葉。教文館で漱石「夢十夜」英訳。十字屋でBrahms' Trio. 夕、子供らとTrio.(寺田寅彦日記「昭和九年」)
(908夜)
十二月二十七日 木 晴夕、東一、正二、弥生、雪子とヤマトで食事。ギンブラ、千疋屋でイチゴ。(寺田寅彦日記「昭和九年」)
十二月二十三日 日 曇朝、円地夫妻来訪、文子氏戯曲集出版の事に関する礼なり。第一相互に同伴昼食。帝劇見物。雪子、溝淵で診てもらう。皇太子殿下御誕生日。(寺田寅彦日記「昭和九年」)
法苑山浄心寺相伝ふ、当寺は浄心院殿妙秀大姉〔三沢の局〕の菩提を弔はせたまはんがために、御建立ありし精舎なりと。当時浄心尼は小堀正一入道宋甫〔小堀遠州〕の妾なり。寛永十八年辛巳〔一六四一〕大樹〔将軍家綱〕御誕生ありし頃、正一入道の忠心を補ふの一分に備へんと、春日の局〔将軍家光の乳母〕に就いて御乳母となり、大樹を育し奉るゆゑに、浄心尼卒するの後も、なほ生前の勤労を思し召し出だされ、万治元年戊戌、当寺境内若干の地を封じ賜ひ、また堂舎経営の料として、おほいに資財を喜捨したまひ、日義上人をして当寺開山たらしむ。(『江戸名所図会』巻之七 揺光之部)
十二月九日 日 晴朝、朝日新聞同情週間に出す色紙三枚かく。昼、一同と東電ビル八階のニューグランドで昼食。皆と別れて帝劇の映画見る。ファイトの「黒騎兵」、リリアンハーヴェーの「ブロンドの夢」、ウーファ教育映画等あり。(寺田寅彦日記「昭和九年」)
十二月二日 日 晴朝、川島清治君、除隊の挨拶にきたる。昼、高島屋で津田君に会い、展覧絵再見。午後、日比谷劇場で映画を見る。この日、藤の実、盛んに飛ぶ。(寺田寅彦日記「昭和九年」)
経営者は長松凌氏、支配人は佐伯尚雄氏、企画宣伝方面は平林淳助、藤山於菟両氏が担当し、教授部には末広咸雄、大八木一正、山本洋雄の三氏がいる。(中略)バンドはテイトジャズ、タンゴオーケストラの二組を持ち、他にダンサーに依って組織されたミス・テイト・オーケストラ(楽員十名他に補欠を置く)がある。(水島芳静『大東京と郊外の行楽』)
経営は合資組織で代表者は植木三郎氏、教師には東栄次郎、棒葉覚四郎、毛塚一郎氏他二名、バンドは東洋一と誇るテディ・タビヤ楽長指揮のジャズバンドと、伴薫楽長指揮のタンゴバンドの二組他三組――(水島芳静『大東京と郊外の行楽』)
こゝの経営者は本多長利氏、支配人が菅原英二氏、教授部には田沼清、若林政雄、横山龍夫、鈴木華枝、原夏江、加園静子の諸氏があり、(中略)バンドは昼が岡崎ダンスアンサンブルで、タンゴとジャズの二組、サービスタイムは、アコーデオン伴奏、夜は日米ジャズオーケストラの他、我が国嚆矢として誇る本格的タンゴたるオルケスタ・ティピカ・ニチベイの二組――(水島芳静『大東京と郊外の行楽』)
経営者は宮井芳太郎氏、山元博氏を支配人に、教授部は田淵芳樹氏を主任に村上十九二、伊藤貞雄の諸氏が当り、バンドは川崎ジャズオーケストラ、平塚タンゴバンドの二組――(水島芳静『大東京と郊外の行楽』)
こゝは昭和六年の創業、株式組織で本多長利氏を社長に、林郁郎氏が支配人、教師は武井春雄、吉田誠三、婦人教師としてルボーフの三氏が当り、バンドは岡崎ダンスアンサンブルで、タンゴは岡崎氏指揮、ジャズは村井氏の指揮である。(水島芳静『大東京と郊外の行楽』)
昭和14年11月23日夜になって雨。春陵さんと雷門前の珈琲店ブラジルへ行く。ここが句会の席だ。七時半ごろ「白鵶会」のめんめん、油桃、龍灯城、千鶴、春夢、昌臣、行宇、四季男(小生)と集う。コーヒー、サンドイッチをとりながら、互選となる。結果、びりになりがっくり。会費五十銭はやすいと思った。水果物を食べ、十時散会。珈琲をのみこぼす愁ひ白卓に(吉岡実『うまやはし日記』)
11月22日(木)浮草物語 封切夕方一寸丸の内松竹に行ってみる飯田蝶子 上山草人に会ふドウトンヌ→都川 のち吉川満子も来る かあやん酩酊のために 茂ちゃんにアリバイ一札をかく(小津安二郎日記「1934(昭和9)年」)
11月21日(水)この日 検閲三ヶ所 6メートルCut夕方ぶらぶらと蒲田の床屋まで行くキャンデーで紅茶とホット・ケーキ(小津安二郎日記「1934(昭和9)年」)
十一月十四日 水 晴理研講演会第一日。夕、中谷君と東京会館、後、帝劇で「北進日本」見る。山脇敏子夫人の弟、先日自動車で負傷したのが危篤となりし由。(寺田寅彦日記「昭和九年」)
十一月十三日 火 曇、後少雨朝、東一帰京。昼、小宮、松根と竹葉に会す。夜、錦水で「科学」の編集会。(寺田寅彦日記「昭和九年」)