泡盛 酒
芝金杉橋角
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越後屋商店は芝区金杉川口町(現・港区芝1丁目)にあった。
(512夜)
十一月二十五日。今日も好く晴れたり。読書の外為すことなし。日の暮るゝを俟ちて銀座に往き、不二アイス屋にて夕餉を食して後紅茶をキユウペルに喫す。酒泉萬本山田樋田杉野竹下の諸子在り。酒泉君知る所の某令嬢と千疋屋に入り盆栽及び熱帯産小魚を観る。小魚の価貴きもの八九拾円、廉なるものも五六円を下らず。菓子屋青柳にて名物の金鍔を焼くを見、之を購ひ〔三個拾銭也〕きゆうぺるに還る――(後略)(永井荷風 断腸亭日記「昭和八年」)
十一月二十三日。好晴昨の如し。(中略)読書昏暮に至る。出でて銀座風月堂に飯し喫茶店きゆうぺるに入る。毎夜の諸子来会すること毎夜のごとし。帰途また佃茂を過ぐ。主人の愛養せし木葉木兔一昨暁死すと云ふ。戯曲源氏物語〔某子作築地劇場部員上演ノ筈〕上演を禁ぜられしと云ふ*(永井荷風 断腸亭日記「昭和八年」)
十一月十四日。くもりて暖なり。植木屋来り屋後に掃寄せたる落葉〔去年より日々掃寄せしもの〕を門外に運び、荷車に積みて芝赤羽橋芥捨て場に往く。(中略)晩餐の後銀座に往く。亀屋にてコゝア一鑵を買ひ喫茶店きゆうぺるに憩ふ。酒泉萬本高橋竹下樋田歌川の諸子に逢ふ。帰途また烏森の佃茂に入りて笑語す。夜漸く寒し。頃日市内舞踏場に出入する男女の検挙盛に行はる。齋藤医学博士**妻、近藤廉治〔近藤廉平男〕の妻〔樺山伯の女〕等、警察署へ呼出されしと云ふ。(欄外朱書)舞踏場検挙名家ノ夫人多ク捕ハル(永井荷風 断腸亭日記「昭和八年」)
十一月十一日。終日雨ふる。晡後断雲低く東南に向って飛ぶを見る。燈刻出でゝ土橋の榮湾に至り晩餐を食す。此夕食堂に日本人の客無く、英佛人の家族らしきものを見るのみ。佛蘭西海岸の貧しき旅亭に在るが如き思をなさしむ。珈琲の一盃を前にしパイプを銜へて黙想沈むこと暫くなり。(永井荷風 断腸亭日記「昭和八年」)
桜田古への郷名なり。『和名類聚抄』〔源順、一〇世紀〕にも、「荏原郡桜田(佐久良田)とありて、その称もつとも久し。(後略)『武蔵国風土記』に曰く、荏原郡桜田郷 公穀四百六十三束、三字田。桜田と号するは、その郷の岡および野に桜樹多きをもつてなり、云々。(『江戸名所図会』巻之三 天璣之部)
十一月初二。晴れて暴(にわか)に暖なり。庭の山茶花忽(たちまち)満開となる。北窓より眺むる住友氏園林の銀杏半黄を呈す。雑誌集古〔癸酉五号〕を披き見るに今年の秋盛に流行せし東京音頭の事につきて云へる文あり。仕来りといふもの荒草の絶えしかと思へばまた芽をふくことあり。風俗を紊(みだ)すとて禁ぜられし盆踊も古の歌垣などの名残なるべし。此頃ハ何音頭と名付け諸所の広場にて行はれぬ。世の末に大衆の踊のはやりし事史書にも見ゆとて幽静を好まるゝ老人苦き顔をしぬ。云〻