東京・京橋 高島屋
* * *
四月二日。昨日の東京日日新聞紙上父の映像〔これは記者のつくりし題なり〕の欄内に、博士森於菟氏が其先徳鷗外先生のことを書綴られし文出づ。午後草稿一二枚かきて後家を出づ。雨ぽつ/\と降り来りし故高嶋屋百貨店に入り古本の市を見る。(永井荷風 断腸亭日記「昭和十一年」)
(1001夜)
四月二日。昨日の東京日日新聞紙上父の映像〔これは記者のつくりし題なり〕の欄内に、博士森於菟氏が其先徳鷗外先生のことを書綴られし文出づ。午後草稿一二枚かきて後家を出づ。雨ぽつ/\と降り来りし故高嶋屋百貨店に入り古本の市を見る。(永井荷風 断腸亭日記「昭和十一年」)
東海道線の上りの最終列車は横浜止りなので、横浜駅から省線電車に乗り換えたが、それも上りの最終で、相客は広い車室にニ三人しかいなかったから、東京駅に著(つ)くまでには私一人になってしまった。夜中の風の吹いている構内を抜けて、外に出たところが、星のまばらな夜空が黒黒と一ぱいに広がって、変なところに半弦の月が浮いているので、不思議な気持がした。駅前の交番の横に立って眺めて見ると、月の懸かっているのは、丸ビルの空なのだが、その丸ビルはなくなっている。(内田百間「東京日記」)
三月三十一日。晴れて後にくもる。午後小品文執筆。夜京橋明治屋にて牛酪を購ひ浅草公園を歩み乗合自働車にて玉の井に至り陋巷(ろうこう)を巡見す。再び銀座に立戻れば十一時なり。(永井荷風 断腸亭日記「昭和十一年」)
竹葉の右隣り、郵船ビル側にあります。米国風の一品料理で、美味しい洋食を手軽に食べさせるので、すっかり当てた店。少女女給のサーヴィスも満点。マネージャー格が絶えずお客の出入りに気を配ってゐるのも頼母しい。(白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』)
日比谷交叉点の一角に聳えた百貨店美松の地下室食堂は、他のデパートと違ひ、午後十一時まであるので、丸の内住人にとても便利がられてゐます。(白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』)
美松と背中合せ。三井信託の間の小路を這入った中途にあります。こゝは高級支那料理で、座る部屋もあり、美味しい料理も食べさせますが、宴会でもないと一寸行けません。(白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』)
公園つゝじ山の奥にある瀟洒な洋風二階建で、洋食が主ですが、階下は飲もの、おすしの大衆向になってゐて、藤棚があり、周囲は緑樹にかこまれて、一寸山荘気分があります。(白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』)
ライト式の建築で有名な日本一の大ホテル、外人客が多く、料理その外すべて本格で日比谷公園に向った表玄関から赤毛布らしくぶらりと這入るのは、少々気が引けますが、山下橋の裏口からグリル食堂へ行くのなら、それ程懐を心配しなくともよろしい。(白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』)
もとの日比谷大神宮を縦貫する大通りの日比谷から行けば左側の支那料理屋。まだこの店が日比谷の電気倶楽部の辺にあった頃、文壇人の某々氏等から東京一の支那料理との折紙をつけられたもので、今でも値の割に美味しいものを食べさせるのが評判で、出版記念会、其の他安い会費の宴会もよくありますが、相当に食べられます。(白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』)
三月二十日 金夜来の雨晴れ、九時ごろから晴天となる。航研行き。帰路、新宿不二屋で東洋城と連句、例のごとし。城内の騒ぎをよそに松青く 東洋城あとは散り/\行く雲 寅日子かこつけもちいとばかりの花の旅 〃(寺田寅彦日記「昭和六年」)
三月十九日。晴。燈刻銀座松阪屋店内古本展売会に往く。芭蕉文集を獲たり。帰途茶肆久辺留に立寄るに萬本君在り。今朝憲兵に寝込みを襲はれ、其本部につれ行かれ、印度の人サバロアル氏の交遊範囲につきて尋問せられし由を語る。サ氏は軍人暴動の事起りし頃国事探偵の嫌疑を受け憲兵隊本部に留置せられ今猶(なほ)放免せられざる由なり。(永井荷風 断腸亭日記「昭和十一年」)
三越横通りを入った歓楽境の入口にある代表的カフェーと云ふより新宿カフェー界の草分とも云ふべき歴史を持つ店です。外観も余りごてゝゝせず近代的な趣向をこらして好感を多分に与へてくれます。(安井笛二編『大東京うまいもの食べある記 昭和十年版』)
坂の右側、瀟洒な白塗りの外観にアッサリ「喫茶レイロ」と書いてある辺り、独逸の新建築でも見るやう。内部も感じよく、レコードをきゝながらゆっくりコーヒーの飲めさうな店です。(白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』)
三月十四日。くもりて風暖なり。午後日高君来談。晡下鼎亭に往きて浴す。帰途竹葉亭に飯し久辺留に憩ふ。一客あり二月二十六日兵乱の写真を携来りて示す。叛軍の旗には尊皇討姦と大書したり。深夜杉野教授と車を共にしてかへる。(永井荷風 断腸亭日記「昭和十一年」)
三月四日。晴れて風寒し。晩食後銀座に往き総菜を購ひ久辺留に休む。高橋邦氏より騒攬の詳報をきく。車を輿(こし)にしてかへる。此日午後千香女史来訪。余が旧書礫川徜徉記を再刻したしといふ。草稿をわたす。(永井荷風 断腸亭日記「昭和十一年」)
郊外カフェに相応しい、気持のよいおちつきを持ったよきカフェである。(小松直人『Café jokyû no uraomote』)
アザミは地震前から東中野の駅のそばにあった。内外ともクレオソート塗りの、気の利いた家だ。壁には小さなコブランまがいの壁掛けなどがかかっていた。(小松直人『Café jokyû no uraomote』)
原稿がとりだされたのはまだみんなが正式にテーブルの席につくより前だったような感じ。みな自由に立ったりかゞみこんだりしてそのトランクをかこんでいた。そしてやがてふとトランクのポケットから小さい黒い手帳がとりだされ、やはり立ったり座ったりして手から手へまわしてその手帳をみたのだった。(永瀬清子「雨ニモマケズの発見 「モナミ」の賢治追悼会」)
2月15日 日午後、邦楽座で映画「モロッコ」を見る。近来にてのおもしろき映画なり。(寺田寅彦日記「昭和六年」)