技術 消毒
上野松坂屋裏(御徒町駅際)
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鶴岡理髪本館は下谷区仲御徒町3丁目(現・台東区上野3丁目)にあった。
(574夜)
1月18日(木)帝劇に来り海上ビルの不二アイスにてサロイン・ステーキをくふ田端の岩田専太郎氏の宅に行く 歌麿晴信の浮世絵を見る山中十時十五分にて帰洛 危くまに会ふ久振にわが家にひとり熟睡す(小津安二郎日記「1934(昭和9)年」)
宇野千代が、エプロンをかけた女給仕であったことが、今日でも伝えられているが、宇野さんの話によれば、「私は十五日ばかりあの店にいただけなのに、あの人は燕楽軒の女給だった、と引き合いに出されるのよ」とのこと。でも宇野さんは、その十五日の間にいろんな人の記憶に残るほど美しい人であったらしい。(三宅艶子『ハイカラ食いしんぼう記』)
明治大正時分から学生連のクラス会、県人会、送別会等にお馴染みの家です。まアちんや、米久流の経営法ですが、座敷も多く、家族連れで鍋を賞味するにもよろしい。牛鍋(四十五銭)。表に祝儀御遠慮の立看板の出てゐるのは男らしくてよろしい。(白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』)
1月14日(日)帝劇 初日* 三回 他に世界大洪水に狂乱のモンテカルロ 大入出る井上から電話あり 折からの岸松雄とコロンバンで別れて雷門に行くオリヱント→つま彦→稲本同勢 岩田専太郎 山中貞雄 井上金太郎◉にこゞりや新吉原は冴え返る(小津安二郎日記「1934(昭和9)年」)
一月七日 火 晴朝、松根、小宮より電話、夕飯を約す。午前理研、昼食帰宅。昨日の疲労にて頭痛、四時ごろまで横臥。十字屋にホルンを持参、修理を託す。不二屋にて小宮、松根会合。竹葉夕飯。ドイツバー、フレーダーマウスにて黒田正夫君夫妻、真島君に会う。(寺田寅彦日記「昭和五年」)
駒込神明宮社伝に云く、文治五年〔一一八九〕右大将頼朝公奥州征伐のとき、霊夢のことありけるその朝、このあたりに社地を求め索りしに、一松株の枝に大麻のかかれるあり。公これを拝したまひ、これ霊夢の応なりとて、すぐにその地に神明宮を勧請すと云々。その後多くの星霜を経て破壊におよびしを、慶安〔一六四八-五二〕の頃、堀丹波守利直再興あり。例祭は九月十六日なり。(『江戸名所図会』巻之五 玉衡之部)
一月一日 月 晴 暖正二、九時ごろ来、東一も帰省中にて打ちそろい朝祝い。安倍君の「ギリシアとスカンジナビア」を読む。鳴海要吉君きたる。「連句雑俎」別刷りを進呈。昼から銀座へ行き、エスキモーでコーヒーといちご。夕方、藤岡君夫婦きたり、Haydn Trioを試む。「文体」への原稿「雑記帳より」をかく。(寺田寅彦日記「昭和九年」)