鰻蒲焼 すっぽん料理
浅草
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浅草区北田原町(現・台東区浅草1丁目)のやっこは、寛政年間(1789~1800年)に創業した。
(694夜)
松竹座の前の角で、人通の繁しい場所にありながら、不思議と客が洗練されていて、浅草の六区から心配されるやうな低級な気分が少しもなく、外から硝子戸越しに覗かれる欠点さへ除けば、女たちのサーヴィスも、酔った飲み心地も、銀座でも鳥渡(ちょっと)味へぬカフェである。(酒井真人『カフェ通』)
5月29日(火)久々に会社に行く夜邦楽座にドンキホーテの試写 のち内田岐三雄 牛原虚彦 筈見恒夫と銀たこにのみ にんじんについて語る(小津安二郎日記「1934(昭和9)年」)
伝法院を六区へ出はずれる反対側にあります。三階建の大きい構へですが、惣菜料理を割安に食べさせるのがこゝの特色で、今日のやうに食堂のなかった時分は随分重宝がられたものです。(白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』)
五月二十七日 日 晴しん、弥生、雪子とばら新へ行く。あいにく付近大掃除ゆえやめて、精養軒の藤棚下で昼食。松屋へ行き金魚草三鉢求む。夜、長谷川君、正二来。長谷川君、今夜仙台行き。(寺田寅彦日記「昭和九年」)
今流行のとんかつの元祖とも云うべき家。とんかつの歴史は古く、敢て近年に初(はじま)ったものではありませんが、日本小料理店風を加味した粋な作りのとんかつ屋、そして美味しいとんかつを売物にした近代的な形式を創造したのは、この喜太八などが最も早かったでせう。(白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』)
千束町通り入口の右角店。まぐろ料理と銘打って二階お座敷、下は腰掛け式です。(白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』)
プペダンサント玉木座前を池の畔へ抜ける道の左側。店先に海産物その他の食料品を山のように積んで、それが馬鹿ゝゝしく安いので評判ですが、食堂も大衆本位の安いので何時も大変な入りです。(白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』)
五月二十三日 水 曇、後晴中谷君上京。夕食、藤岡君と東京會舘にて。昼、高嶺君と風月。夜、茂野吉之助氏(寒川陽光氏紹介にて)来訪、子規三十三回忌のことにつき相談あり。◎理研講演会第一日。(寺田寅彦日記「昭和九年」)
池の端映画館通りは、そばの「萬盛庵」を失って目星(めぼ)しい食べもの店と云ってはこの白十字のみになりました。喫茶、洋菓子等に若い人達の人気をさらっています。(白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』)
五月二十一日 月 雨昼、丸善へ行き、松根の餞別に手帳を求め、一時発を見送るため東京駅に行く。出発延期となる。夜、酒井さん、坪井君。(寺田寅彦日記「昭和九年」)
すしや横町の二つ目右側角店。支那そばで売込んだ古い店で、五十番、上海亭のなかった頃、いや支那料理が、今日のやうに普及せず、珍しかった時分から評判だった家です。(白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』)
屋根に金の鯱を頂いた堂々たる日本建築の角店で、二階上には大広間小座敷の多数があり、階下にも広い腰かけ式食堂があります。同じ牛肉屋でも、こゝの二階へは一寸改まらないと上れない気がして、それ丈けちんや等へは一寸尻込む家族連れ等によいでせう。(白木正光編『大東京うまいもの食べある記 昭和八年版』)
五月十八日。雨歇(や)まず。情話*二日目なり。朝十一時オペラ館に至る。夜十時菅原君と共に中西に一茶し地下鉄道にて帰る。(永井荷風 断腸亭日記「昭和十三年」)
五月十日 木 晴午後、帝劇で「にんじん」を見る。夕方、日高孝次君来、明日授賞式に招待する近親者二名追加を頼まる。京焼き花瓶をもらう。留守に西村伝三君きたり。みやげにpaper knifeと花瓶(海松)もらう。森老人、容態あしき由、貞子より報あり。明朝行くはず。(寺田寅彦日記「昭和九年」)
五月六日 日 晴十時半からドライブに出かける。新宿三越で弁当を買い、八王子から与瀬に行き、河原で昼食。中野、川尻、橋本、根岸、能が谷、竹の下、溝の口、二子、渋谷を経て帰る。新緑至るところ美し。多摩台地中には現代ばなれのした村落なお存ぜり。(寺田寅彦日記「昭和九年」)